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2007.09.12 Wednesday 23:59

幕末散歩(函館・其の一)

いろいろと予定が前後した結果、くしくも旧暦では函館戦争終結直前の時期に訪れることになりました。
まさかこの時期(6月)に北海道で日焼けするとは思っていませんでしたが、東京と違ってべたべたした暑さでなかったのは良かったです。
弁天台場跡ホテルに荷物を預けたら、まずは市電で終点のどつく前へ。
箱館戦争の際に新撰組が守備していた弁天台場の跡は、今は函館どつく株式会社の敷地となっています。正門前の碑の他には当時を思わせるものはありませんが、史跡ということを除いてもそりゃもう魅惑的な施設でございました。門から少しだけ見える建屋の数々がいかにも年代ものな感じでたまりません。施設見学ツアーとかないのかな…ないよね、普通の工場だもんね…。
街を歩いていると、遠くからでも「HAKODATE DOCK」と書いてある巨大な門のような構造物が見えるんですよ。ぜひあのふもとに行ってみたい。調べてみると門ではなくてクレーンだそうですが、ということはやっぱり船を吊り下げるんでしょうか?想像するとわくわくしますよね!ね?

傷心惨目の碑魚見坂を上って高龍寺へ行きました。
箱館戦争当時は箱館病院の分院として使われていたそうです。箱館病院の院長であった高松凌雲は敵味方の区別なく治療にあたり、新政府軍が病院へ乱入した際も身を挺して患者を守ったといいます。ところがこの分院では新政府軍よって多数の会津藩士が斬殺されてしまいました。その供養のために立てられたのが、境内にある「傷心惨目の碑」です。
墓所には勝海舟と親交のあった渋谷利右衛門や、写真家の横山松三郎のお墓があります。横山松三郎は高田屋一族と縁の深い人で、写真を(元浦賀与力の)下岡蓮杖に学んだそうです。
称名寺すぐ近くの称名寺の境内には新選組隊士のお墓があります。
また、墓地には高田屋一族のお墓がありました。高田屋嘉兵衛自身のお墓は晩年を過ごした故郷の淡路島にあるそうですが、こちらには高田屋を継いだ弟の金兵衛たちが眠っています。ちなみに高田屋の全盛期はこの金兵衛の時代であったそうです。
称名寺の隣は実行寺です。戦争終結後、野ざらしのままだった脱走軍の遺体を、実行寺の住職にかけあって埋葬したのが侠客の柳川熊吉でした。
さらにその隣の東本願寺函館別院船見支院には、弁天台場や五稜郭の設計者である武田斐三郎の夫人や、「函館丸」を建造した続豊治が埋葬されているとのことです。
蔵カフェ高龍寺、実行寺、称名寺とも幕末当時は別の場所にあったそうで、この後はしばらく当時あったと言われる辺りを巡ってみました。弥生小学校の前にある案内板には実行寺や称名寺が当時このあたりにあったという説明がありました。
写真は小学校の向かいにあった蔵カフェ。看板にハートを鷲づかみに……。ちなみに近くには蔵薬局(?)もあります。
咬菜園跡にも行ってみたかったのですが、あんまり欲張って疲れても楽しくないのでやめておきました。はなから3日間では全部まわりきれないのは分かっていたので無理はしません。また、次の機会に。

旧奉行所跡中華会館の前を通って基坂の方へ向かうと、旧函館区公会堂とロープウェーが見えてきます。
写真は公会堂の前にある旧奉行所跡の碑。五稜郭完成後は箱館奉行所は五稜郭内に移されていましたが、脱走軍の箱館占領後は、五稜郭にあった奉行所が軍司令部となり、箱館奉行所の業務は再びこの旧奉行所を使用したということです。や、ややこしい…。箱館奉行の永井尚志や、奉行並みの中島三郎助はこっちに通っていたんでしょうか。坂の上の函館の町が一望できる場所にありました。
近くにはペリーの銅像や、函館調所の跡、旧イギリス領事館があります。
旧イギリス領事館旧イギリス領事館のお庭はバラが花盛り。

お昼は函館駅前、和光デパートの裏にあるお蕎麦屋さんの丸南本店でいただきました。
明治24年創業。サイトによると、初代は前述の柳川熊吉の門下生(!?)であったとか。
お腹が空いていたので天ざるでも…と思いつつメニューを眺めていたら、”カニ天そば”というメニューが。カ、カニ天…!?って函館では普通なの??思わず頼んじゃったけど。
お蕎麦がすごく私好みで旨い。また食べたいなあ。…でも正直天ぷらはカニよりエビの方が旨いと思ry
右往左往
author : 遠野 | comments (0) | trackbacks (0)

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