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2008.04.16 Wednesday 23:36

幕末散歩(澳門)

macau1.jpg写真は大三巴街から見上げた聖ポール天主堂跡(大三巴牌坊)です。
マカオのシンボルとも言える建物ですが、1835年にファサード部分のみを残して焼失しています。1835年というと日本では天保時代、モリソン号事件の2年前。幕末の頃にはもうこの状態だったということですね。
ガイドブックか何かでアーネスト・サトウの日記に出てくると読んだ気がするんですが…。『遠い崖』にも出てくるのかな。これから読む予定なので楽しみにしようと思います。

天主堂が完成したのは1637年で、日本から逃れてきたキリシタン達も建設に携わっているのだとか。壁面に残る菊の花は日本を示していると言われ、地下の納骨堂には日本人殉教者の遺骨も納められています。日本のキリシタン達とマカオって意外に強いつながりがあったのですね。時間がなくてまわれませんでしたが「長崎街」という通りもあるそうです。

macau3.jpgこちらはマカオ唯一のプロテスタント教会、モリソン教会です。
名前のもとになったのはロバート・モリソンというイギリス生まれの宣教師で、ネットで少し調べてみたところだと、聖書の中国語訳の出版に尽力した人のようです。1834年に52歳という若さで亡くなられたそうで、教会の墓地にお墓があります。
そして1837年、漂流民を乗せて日本に寄ったアメリカの商船「モリソン号」に対し、当時異国船打払令が布かれていた日本側が砲撃を加えて追い返したという事件が起こります。
実はこの「モリソン号」はモリソン本人とは何の関係もなかったのですが、この船がイギリスのものであるという誤報が混じった結果、多少西洋事情に通じた人々はすっかり「あの有名なモリソン氏を乗せた船を砲撃した」と思い込んでしまいます。
外交への影響を憂慮した渡辺崋山は「慎機論」を書き、高野長英は「戊戌夢物語」を記し、このことが蛮社の獄の発端の一つとなってしまいました。モリソンさんも自分の名前のせいで海の向こうで蘭学者の大弾圧が起こるとは、それこそ夢にも思わなかったでしょうが…。

macau4.jpgモリソン教会に隣接する東方基金會の建物は、一時期東インド会社も使用していたことがあるそうです。この日は公開日ではなかったので、閉じた門の隙間から写真だけ撮ってきました。
ところで門の中にここで飼われているとおぼしき犬がおりまして、柵の間からさかんに遊んでくれと訴えてくるのですよ!ペットボトルを咥えてもう必死!ほとんど涙目です!わああ…ごめんよペットボトル投げてほしいのはよく分かるけど時間ないし中途半端に遊んであげてもかえってかわいそうだしごめんよごめんよ…と罪悪感を振り払って去ってきたので、もしこれからマカオに行かれる方で時間に余裕のある方はぜひ遊んできてあげてください。

他にもいろいろまわってきましたが取り急ぎ幕末関連の場所をまとめてみました。
残りは追い追いということで…。
右往左往
author : 遠野 | comments (0) | trackbacks (0)

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